文学が何故必要か
先日、「文学って何に必要なの?」という質問を投げかけられた。
文学って、きっと数学とか社会とか、そういう具体的に役立つものではないと思う。物理学の原理で物事がどう動くかとか、法律がどのように機能して社会を守っているかは説明してくれない。
でも、文学があるからこそ人は慰められるのだと思う。自分の存在価値を認めてあげられるのだと思う。
自分の恋する気持ち、人を憎む気持ち、恥ずかしい気持ち、疚しい(やましい)気持ち。誰かを愛おしく想い、純粋に温かく想う気持ち。
このような様々な気持ちが他の人の中に存在するのだという、その事実だけで私はホッとして慰められる。
科学というものが物事のHow(どのように?)に答えるならば、哲学がその根本的な理由Why(なぜ?)に答えるというのは周知の事実。
法律が存在しても、何故その法律が重要かわからなかったら人々は守らないでしょう。それを動機付けるのが哲学。
地球が存在して、私達が小さな小さな何かエネルギーを発する存在としてこの世の中にソンザイする事実も、その「何故ソンザイするの?私はダレ?」という問題意識を持たなければ、我々はただの虚しいソンザイになってしまう。
哲学はそのような重要な課題に応えようとする学問だと考えている。
では、哲学だけで十分か?答えは否。
法律を例にとってみると、いくら法律が重要であるとわかったからといって、哲学や法学自体に、それが本当に自分に必要なものであると考感じさせてくれる力はない。
文学は哲学者たちが頭を抱え込んで出した難解な理由を、紐解いて我々にわかりやすく提供してくれる。
例えば、人を殺された家族の気持ちを私達は小説を通して知ることができる。または、人を殺した狂気、それとも惨めな環境を小説、またはノンフィクションで知ることができるだろう。もちろんテレビの報道やインタビューでもそのことを知ることはできる。しかし、繊細な心の描写。人間を人間としてたらしめるその微妙な心の移り変わりは言葉、もしくは映画や音楽を通してしか可能ではないと考えている。(ここでは文学と限定せず、芸術と呼んだほうがいいのかもしれない。言葉だけではなく、映画など見てもそのことは理解可能だからである。)
しかし、言葉は。言葉は絶大な力を持っていると私は信じている。映画などももちろん素晴らしいのだが、言葉を通して、自分の中で文章を一度咀嚼してその気持を自分の中でもう一度ゼロから、文字という記号だけを通して抽象的に起こすという作業はとてもとてもクリエイティブで、本当にその文章の一部を自分の中に取り込むことなのである。
だから、本当の意味で絶妙な心の描写を理解できるのである。
これらのことをもっと広義で捉えると、文学は究極的には人を豊かにするのだと思う。
もちろん、文学に触れたことがないからといってその人の人生は豊かではないとは言いたいのではない。しかし、触れられる機会があるのならば、先人たちが残した知恵や現代に生きる人達の気持ちを汲み取る作業をするというのはとてもためになると思う。
相手の立場になって物事を考えることに長け、そもそも自分自身が拠り所を見つけられたりするものなのだ。
と偉そうにいっていますが、私文学語るほど本を読んでいないと思っています\(^o^)/←オチ
ただ、ミーハーながらも科学の重要性がわかるように文学や教養も大事だと思っていたので書いてみました\(^o^)/ちゃんちゃん